新古代天皇の出自と治世調べ 第1回
神武天皇の即位は、なぜ西暦紀元前660年なのか
はじめに
「古代天皇の出自と治世調べ」は45回で終了した。そこで、再びスタート位置に戻って、皇室の初代とされる神武天皇から「新古代天皇の出自と治世調べ」を始めたい。新しいシリーズの最終回に至る前に私の命が先に尽きる、または、正常な思考が失われると思われるが、できるところまで続けたいと思う。
対象とする天皇の出自と治世は、記紀に記された内容である。それらを他の一次文献(古代中国や朝鮮半島の文献他)や考古学調査資料、地理・地政学資料などと対比させて、それらの真偽を明らかにし、本当はどうだったのかを推理していく。
特に『日本書紀』の記述を対象として重視したい。『日本書紀』が記した神武天皇の即位時期は、西暦に置換えると紀元前660年となっている。考古学調査に基づくと、この時期は弥生時代前期ということになる。中国の歴史書『後漢書』倭伝には、漢の時代(紀元前2世紀~2世紀)には百余国あったと記されており、中国文献と食い違いがあり、真実とは疑わしい。なぜ、あり得ない古い時代と記したのか、その理由を前もって明らかにして『日本書紀』の年代記述の特徴を理解したい。
また、『日本書紀』は、天武10年(681年)3月17日に天武天皇が帝紀他の編纂を命じたことにより編纂が始まり、養老4年(720年)5月21日に舎人親王より元正天皇に紀30巻と系図1巻が奏上され、編纂を終了して完成している。39年の歳月が流れているが、『日本書紀』を実際に述作したのは、いつ頃に誰が行ったのかを知っておくことは、歴史書としての性格を理解するために有用と思われる。本題に入る前に以上述べた2つについて前置きしたい。
神武天皇の即位時期を決めた辛酉革命説
神武天皇の即位時期は、『日本書紀』の述作者が辛酉革命説に基づいて決められたとの見解は、平安時代の西暦901年に当時の文章(もんじょう)博士であった三善清行(みよしきよつら)が改元を上申した『革命勘文(かくめいかんもん)』に記されている。
「易緯(えきい)にいう、辛酉(しんゆう)に革命を為し、甲子(かっし)に革令を為す。鄭玄(じょうげん)曰く、天道遠からず、三五に反(かえ)る。六甲を一元と為し、四六二六交(こもごも)相乗(あいじょう)じ、七元ごと三変あり、三七相乗(あいじょう)じ二十一元、合せて千三百二十年を一蔀(ほう)と為す」という文章が冒頭部分にあり、これらは中国から伝わった辛酉革命(しんゆうかくめい)説であるとしている。とはいっても、予備知識がないと何を言っているのかさっぱり分からないという人が多いと思うので解説をする。
易経はご存知であろうか。古代中国の書物の五経の一つで、易経の中心思想は、陰陽二つの元素の対立と統合により、森羅万象の変化法則を説き、人間処世上の指針・教訓の書とされる(ウィキペディア『易経』より)。
易経他の五経は経書とも呼ばれる。経書に対して緯書(いしょ)と呼ばれる書物がある。経書は地球儀の経度に例えると解るように縦糸である。緯書は地球儀の緯度に例えると解るように横糸である。経書と緯書は、縦糸と横糸の関係にあるという意味でそのように呼ばれている。
緯書は、経書の注釈として、経書の内容に従って書かれた書物を指しているが、未来を予測する記述を含んでいる。例えば、干支(えと)は十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)と十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)の組み合わせで60の組合せがある。暦年は、干支が割付けられており、60年で一周する。60年経つと元の干支に戻る。60を還暦と称する由縁である。
易緯(えきい)(易に関する緯書)は、それら組合せの中の辛酉(しんゆう)の年には、革命が起こり、その三年後の甲子(かっし)年には、革令が起こると説いている。革命とは、(国の)命(いのち)が革(あらた)まる、即ち、国を統治する朝廷の体制が変わる位の変化である。革令とは、(国の)令(れい)が革(あらた)まる、即ち、朝廷の仕組みや法令が変わる、革命程の変化ではないが、革命に次いで大きな変化である。このように易緯では、例えば、60年周期で革命や革令というレベルの変化が起こるという予測を提示しているのである。
解説を続ける。鄭玄(じょうげん)とは、後漢末の著名な儒学者で、多くの経書などに注釈を著(あらわ)した。「鄭玄曰く」とは、易緯の書にある鄭玄の注釈を引用していることを表している。
「天道遠からず、三五に反る」というのは、60年周期で革命が起きるが、もっと短い周期で、即ち、三五(3×5=15)15年周期で王者の交代という変化が起こると説明している。
「六甲を一元と為し、四六二六交(こもごも)相乗(あいじょう)じ、七元ごと三変あり、三七相乗(あいじょう)じ二十一元、合せて千三百二十年を一蔀(ほう)と為す」は、辛酉年を先頭に干支が巡って、60年後に再び辛酉年が来て起こるとする革命は周期的に繰り返し起こるが、もっと大きな周期で大変革命が辛酉年に起きる。その大きな周期について説明している。六甲とは、十干が六回、即ち10×6=60を表す。60年を一元と定義すると述べている。「四六二六交(こもごも)相乗(あいじょう)じ」とは、四六、即ち4×60=240と二六、即ち2×60=120を交互に足し算していくと述べている。240年後の辛酉年、次は120年後の辛酉年、その次は240年後の辛酉年というように大変革命が起きていくと説明している。
「七元ごと三変あり、三七相乗(あいじょう)じ二十一元」は、別の大変革命の起こる周期について説明している。七元(7×60=420年)経つと、次の始まりの辛酉年に大変革命が起こる。それが大きな区切りの中で3回起こると説明している。この大周期の大変革命が3回起こると七元×3=21元=1260年となる。
「合せて千三百二十年を一蔀と為す」とは、四六(240年)と二六(120年)を交互に加算した数が、21元=1260年を越えた最小数となる数、即ち1320年を一蔀(ほう)と定義して大変革命の最も大きな周期と定義すると説明している。
過去に多くの研究者が解釈を試みているが、現時点で総括して、筆者が最も相応しいと思われる解釈を述べた。
中国の緯書は、このように簡単、曖昧に記されることが多くあるので、後の研究者は、様々に解釈して、理解が長らく定まらないことが多いようである。厄介なことに、三善清行の記した『革命勘文』において引用された易緯や鄭玄注は、現時点で残存していない。引用が正しいのか検証ができないという問題がある。
その様な状況の中で、神武天皇の即位の辛酉年を決定したとされる辛酉革命説は、どんな内容なのか、それは、いつ頃形成されて、日本にどのように流伝し、どのように影響を与えたのか、筆者が理解した現在に至るまでの研究経緯の概要を述べたい。
三善清行(みよしきよつら)の『革命勘文』
『革命勘文』は、群書類従 第拾七輯に収録されており、国会図書館デジタルコレクションからネット検索して見ることができる。
『革命勘文』の冒頭部分の中国の緯書からの引用文についてはすでに紹介した。三善清行は、鄭玄注で説明された大変革命の四六二六周期について、独自の考えを入れて、さらに複雑な周期を主張している。四六=240年と二六=120年を交互に加算して作る周期について、易学の卦を当てはめると、四は、易学の五元素の一つである金の生数となり、二は、易学の五元素の一つである火の生数となる。そのため一蔀の中の循環において、四六の金は火に溶かされて漸減し、他方、火の生数である二六は、漸増するとして、
四六:240→180→180→120 漸減
二六: 60→120→180→240 漸増
と設定されている。したがって、四六二六周期についての記述は、極めて特異で難解な内容となっている。
その妥当性はよく判らないが、三善清行の『革命勘文』の目的である西暦901年の改元を勧めるにあたり、一蔀の起点を天智天皇の即位の辛酉年(西暦661年)として、最初の四六=240年が巡り、西暦901年が次の二六=120年の頭の辛酉年となり、大変革命の年となるようにしたのであろうと想像されている。
また、三善清行の『革命勘文』は、神武天皇の即位元年は本朝人皇の首(かしら)であるから、一蔀の首の辛酉年として革命の証とし、神武天皇が初めて詔を発して神々を祀った時を神武四年として、革令の証としたのだと謹んで考えると記している。
そして、21元経過後の西暦601年(推古天皇九年)について、「推古天皇九年辛酉春二月、上徳太子(聖徳太子、または上宮太子)が初めて斑鳩村に宮を造り、太子が大小の事(政治一切)を皆決した。また、この年、任那を救うために新羅を討った。十二年甲子春正月、徳仁義礼智信の冠位(冠位十二階の制定)を授けることを始めた。夏四月、皇太子は憲法十七条を制定して披露された。本朝において、冠位法令を推古天皇甲子の年に出されたのは、甲子革令の験現と見るべきであろう」と記している。
神武天皇即位辛酉年(西暦紀元前660年)から、斉明天皇七年庚申年(西暦660年)の1320年は、一つ前の一蔀(ほう)であると記し、今の(三善清行が『革命勘文』を上奏した西暦901年の時の)一蔀の首(かしら)(西暦661年)の説明に移っている。
一蔀の首の斉明天皇七年辛酉(西暦661年)秋七月、斉明天皇が崩御され、天智天皇が即位(中大兄、皇太子が称制)された。この年は大唐では高宗の龍朔(りゅうさく)元年に当たる。その三年甲子(西暦664年)春二月、冠位二十六階を制定し、姓(かばね)の大氏上には大刀を授け、小氏上には小刀を授け、伴造等の氏上には楯と弓矢を授け、民部(かきべ)と家部(やかべ)を定めた(大化改新で廃止したのを復活させた)。また、夏五月、大唐の鎮百済将軍(ちんくだらしょうぐん)である劉仁願(りゅうじんがん)が遣わせた郭務悰(かくむそう)らが表(ふみ)と進物を奉った。大唐では高宗の麟徳(りんとく)元年に当たる。これらは、革命や革令の徴候であるが、和漢において、さらに詳しい記述は見当たらないと述べている。
辛酉革命説が、中国の緯書から得たものであるなら、一蔀の首(かしら)が大唐の高宗治世の龍朔元年に当たる、即ち一蔀の首の年が、なぜ年号を龍朔に改元した年になっているのか、その理由を説明すべきと筆者は思うが、「これらは、革命や革令の徴候であるが、和漢において、さらに詳しい記述は見当たらない」と述べて終っているのは、大変気になるところである。
三善清行の『革命勘文』は、以上のような説明を前に記し、今年(西暦901年)は、大変革命の年に当たるとして改元の奏請を後半に行っている。中国の緯書研究の権威であった安居香山(1921年生~1989年没)が『中国神秘思想の日本への展開』において記した『革命勘文』後半の要約文を参考に記すのでご覧頂きたい。
「彗星がでたり、老人星があらわれるような符瑞は、新しい天運が開けてくる前兆である。更に(藤原)仲麿の場合で見たような前例もあるではないか(藤原仲麻呂の乱を鎮めた後、天平宝字の元号を天平神護に改元して世直しを計った例)。諸制を一新する好機である。どうして古い慣例にならって、改元をしないでよかろうか。是非ともこの機会に、旧穢(きゅうえ)を除き、すべてを更新してはいかがでしょうか」
「是非ともこの機会に、旧穢(きゅうえ)を除き、すべてを更新してはいかがでしょうか」という一文が入っている。これは辛酉革命説とは別の事が加えて述べられている。この『革命勘文』が奏上されたのは昌泰(しょうたい)四年(901年)2月22日であるが、昌泰四年(901年)1月25日に右大臣の任にあった菅原道真が讒言によって任を解かれ、太宰員外帥に左遷されるという政変(昌泰の変)が起こっている。
したがって、文中にある旧穢(きゅうえ)とは、罪を着せられた菅原道真のことを指していると思われる。この『革命勘文』は、菅原道真の左遷という出来事が大いに関わっている。本題からは外れるが、改元の始まりは、菅原道真の左遷が大いに関わっていることを知ることは、歴史の理解として重要と思われるので、ここで触れたい。
菅原道真の左遷と『革命勘文』の関係
菅原道真(845年生~903年没)と三善清行(847年生~918年没)は、若い頃に学人を志し、お互いにライバルであった。菅原道真は23歳で文章得業生となり、33歳で文章博士(もんじょうはかせ)となった。しかし、三善清行は、28歳で文章得業生となったものの文章博士になったのは54歳と21年の差がついている。この差は本人の力量や運の善し悪しも起因したであろうが、出身の家系の差が大きな原因とみられている。菅原道真の祖父や父は二代に渡って文章博士となっており、有名な学者の家柄であったのに対し、三善清行の父はその伝歴さえ明らかでない下級役人でしかなかった。この違いが経歴の差の大きな要因であったといわれている。
菅原道真は、その後、宇多天皇(867年~931年)の側近となり、宇多天皇の信任を得て出世を遂げ、宇多天皇治世の末期の寛平九年(897年)には、藤原時平(ときひら)と並んで太政官の長となった。そして、道真の長女を宇多天皇の女御とし、三女を宇多天皇の皇子斉世(ときよ)親王の妃として、宇多天皇との結びつきを強めた。
その後、宇多天皇は、敦仁(あつひと)親王に譲位して醍醐(だいご)天皇(885年~930年)が誕生する。宇多上皇は、醍醐天皇に菅原道真(845年~903年)を引き続いて重用するよう強く求めた。昌泰二年(899年)に菅原道真は右大臣となり、左大臣となった藤原時平(871年~909年)と肩を並べることとなった。
宇多上皇は、899年10月に出家して宇多法皇となった。この頃、宇多法皇が藤原時平の台頭を抑えるため、菅原道真他の宇多法皇に近い人々の重用を醍醐天皇に強いていることに対して、醍醐天皇側近集団の反発が起こり、藤原氏との連携によって政権の安定を図ろうとする醍醐天皇と、宇多法皇との路線対立が明確になっていく。
三善清行は、醍醐天皇側近集団側に立っていたと考えられる。昌泰三年5月に、三善清行は文章博士になった。その10月、三善清行は右大臣の菅原道真に「菅右相府に奉るの書」なるものを送り辞職を勧告している。若い頃、悔しい思いをさせられたライバルであった菅原道真に対して、醍醐天皇側近集団側に立つ三善清行には鬱憤晴らしになったことであろう。
年が変わって昌泰四年1月25日、菅原道真は、讒言により娘婿である斉世親王を皇位に就けようと謀ったと疑われ、醍醐天皇の宣命によって大宰員外帥に降格された。これに呼応して醍醐天皇の政治に関わっていた宇多法皇に近い人々も排除され、醍醐天皇の側近集団と藤原時平支持派の政治的勝利となった。これを昌泰の変と呼んでいる。
三善清行は、菅原道真に辞職勧告書を送って間もなくの翌年、昌泰四年2月22日にこの『革命勘文』を上奏し、延喜元年(901年)7月15日に改元の詔が出されている。この『革命勘文』は、昌泰の変の仕上げとして菅原道真他の排除を進めて「旧穢(きゅうえ)を除き、すべてを更新」して一新を計ることを目的としていたことは明らかであろう。
この三善清行の『革命勘文』は、我が国の後世において、江戸時代まで長らく続いた辛酉革命説に基づく革命の年と革令の年の改元の始まりとなり、改元の手本とされてきた。しかし、辛酉革命説の根拠を訪ねると、三善清行の『革命勘文』で引用された中国の緯書は失われて現存せず、曖昧さを残している。これによって、辛酉革命説に関する論争が長く続くことになった。
那珂通世の神武天皇即位紀元説
那珂通世(なかみちよ)(1851年生~1908年没)は、明治時代の歴史学者である。外国史を西洋史と東洋史に二分することを提案して、「東洋史」の創設者として知られている。また、辛酉革命説に基づいて日本の紀年問題を研究した『上世年紀考』を記した。そして、皇紀を定めるにあたって神武天皇即位年を計算、紀元節の特定にも協力したとされる。
那珂通世は、『上世年紀考』において、『革命勘文』に引用された鄭玄注「六甲を一元と為し、四六二六交(こもごも)相乗(あいじょう)じ、七元ごと三変あり、三七相乗(あいじょう)じ二十一元、合せて千三百二十年を一蔀と為す」を取り上げて解釈し、一元は60年、七元は420年、これに三を乗じると1260年となる。1320年とはならない。1320年は22元となり、三七相乗の数とならないから違算であろうと断じた。そして、一蔀は21元としているから、神武紀元は天智天皇の初年から推定して逆算したのではなく、推古天皇九年辛酉(601年)より21元を逆算したのであろう。推古朝は、聖徳太子が大政を執られ、初めて暦を用い、冠位を制定し、憲法を定められた。この朝廷の辛酉を第二蔀の首と定めて、神武紀元を第一蔀の首とされたのは聖徳太子であろうと記した。即ち、『日本書紀』に記されているように、推古天皇二十八年12月に聖徳太子(上宮太子、豊聡耳皇子)は、蘇我馬子と相議って天皇記、国記、および本記を記し、伝えた。その後、乙巳の変が起こったとき、蘇我蝦夷が殺される前に天皇記、国記、および珍宝を焼いた。船史恵尺は、そのとき素早く、焼かれる国記を取り出して中大兄に奉った。それにより国記は、日本書紀編纂に携わった人に伝えられ、聖徳太子が定めた神武天皇即位紀元を『日本書紀』に記すことができたとした。
四六二六を交互に加算した辛酉年に繰り返し起こるとされた大変革命は完全に無視されている。『革命勘文』では、四六二六を交互に加算した辛酉年に繰り返し起こるとされた大変革命は三善清行によって変則されて学術的に理解が難しくされていることと、中国の緯書から引用したとする鄭玄注が現存せずその真偽の確認ができないことから、忌避されたのであろう。
また、聖徳太子が神武紀元を第一蔀の首(かしら)とされたとする考えは、聖徳太子を敬愛する当時の多くの日本国民に受け入れ易かったのであろう。学術的には異論もあったようであるが、那珂説は、その後長らく通説となって今日に至っているようである。
安居香山による那珂説への疑問
安居香山(やすいこうざん)(1921年生~1989年没)は、中国文化学者で、讖緯(しんい)思想の研究者として知られている。大正大学の教授を務め、大正大学の学長にもなった。
彼の著作である『中国神秘思想の日本への展開』において、永年に渡って中国の緯書や讖緯思想について、また、それらの日本への展開について研究してこられた立場から、那珂説に対して大いなる疑問を呈している。
中国の緯書や讖緯思想の知識を予備的に学んだなら、『革命勘文』に示された鄭玄注や三善清行の説、那珂通世の主張する那珂説を正しく理解することは可能であるとして、一蔀の定義について、各説の内容を図で示して比較している(図1参照)。
そして、那珂説の「一蔀を1320年とするのは、違算であろう」としていることについて、三善清行は、平安時代に朝廷の文章博士を務めた程の学者である。また、鄭玄は、後漢時代の易学の大学者である。彼らが単純な違算をすることは考えられないので、過早な間違った判断としか考えられないと述べている。
また、那珂通世が、神武紀元を第一蔀の首(かしら)とされたのは聖徳太子であろうと推定したことに関連して、聖徳太子の時代には緯書は日本に伝来していたであろうとしたことについて、緯書は、前漢から後漢にかけて形成され、流行した。しかし、一面では、予言書であったため、社会や国家の将来の変革を予言することが多く、為政者からは危険なものと見なされることが多かった。
魏晋南北朝に入ると、緯書の禁圧がしばしば繰り返された。隋が西暦589年に中国を統一すると、初代皇帝の文帝は、593年に個人的に緯書の類を所蔵することを禁止する政令を出している。後を継いだ二代目皇帝の煬帝(ようだい)は、改めて天下に捜索隊を出して緯書に関するものを探し出して焼き捨てさせた。私蔵した者は糾弾されて殺された。宮中の書庫にあった物さえも散亡したというほど、禁圧は苛烈であったと云われている。
魏晋南北朝時代と隋の時代に緯書が堂々と日本に持ち込まれたとは考えられないと述べている。
さらに、辛酉年に革命が起こり、甲子年に革令が起こるとする辛酉革命説について、中国における緯書の動向を俯瞰することによって、その成立時期について検討を進めている。
古代中国の隋の時代までにおいて、辛酉年と甲子年に改元した例が八つある。これらは緯書の説によって改元されたものか調べると、すべてがそうではなくて、改元した年がたまたま辛酉年あるいは甲子年に当たっていたというだけであった。
現存する古代中国で記された文献のなかで、三善清行の『革命勘文』より以前に辛酉革命説が登場する文献は見当たらない。ということは、三善清行が勝手に創作したものか、ということも疑われることになるが、朝鮮半島資料からそれは否定される。それについて次に述べている。
朝鮮半島において、新羅朝の末期に新羅王族出身の弓裔という人が新羅に反旗を翻して西暦898年に「後高句麗」を建国する。その後、904年に「摩震」、911年に「泰封」と国号を改める。その後、弓裔の手下であった王建が、弓裔を滅ぼし、新たに「高麗」を建国して、その後、936年に高麗は朝鮮半島を再統一して、1126年に金に服属するまで高麗国は続いていく
その様な朝鮮半島の歴史において、西暦898年に後高句麗を建国した弓裔が自ら王と称した年が西暦901年の辛酉年で、「摩震国」と国号を改め、元号を武泰元年とした年が甲子年であり、いずれも辛酉革命と甲子革令を意識していたことが知られている。
この事から、この時期に朝鮮半島に辛酉革命説が流伝していたことが確認できる。日本にも流伝していたことも認められる。そして、『日本書紀』が神武元年を辛酉の年として逆算的に年代を設定している事実から、緯書説に基づいて神武紀元の設定がなされたことも考えられるところである。
では、いつ頃に神武紀元の設定がなされたのであろうか。天智天皇の元年辛酉の年を逆算の基準としたのであれば、天智天皇以後にその時期を考えなくてはならない。天智、あるいは天武の両帝と、それをめぐる史官たちによっていろいろと議論される中でそれが定着し、『古事記』ではなしえなかった年代設定を『日本書紀』で完成させたと、考えたらどうであろうかと推定を述べている。
図1 各説の一蔀の定義について比較(『中国神秘思想の日本への展開』p122~123より)
平山朝治の辛酉革命説成立時期についての仮説
平山朝治(ひらやまあさじ)(1958年生~)は、経済社会学者、筑波大学人文社会系教授である。社会心理学、思想史、理論経済学が研究分野と紹介されている。歴史に関係する研究論文も多く発表している。2005年6月18日付けの日文研共同研究会「公家と武家-封建制と官僚制の比較文明史的研究-」の中で『改元・官僚制・革命(改訂版)』と題する平山朝治の論文が公表されており、その中に安居香山が指摘した課題である中国における辛酉革命説の成立時期について研究結果が報告されている。それを紹介する。
中国で隋までは革年改元の事例はなく、先例候補は唐高宗下の則天武后台頭期以外ないと考えている。『旧唐書』本紀 第四にある顯慶(けんけい)六年(661年)の記事に「2月に益州や綿州などで龍を見たと皆が言っているので改元(龍朔(りゅうさく)元年)した」とある。また、龍朔三年(663年)10月の記事に「冬十月、絳州において、山で麒麟をみた」、さらに「元殿の前で麒麟の足跡をみた」という報告が有り、「十二月、来年の正月一日から麟徳(りんとく)元年とするという詔があった」とある。これらの改元は、『革命勘文』にも紹介がある。そして、結論を先に記すと、辛酉の改元年(龍朔元年、661年)を、一蔀の首(かしら)としたのは、唐の高宗の皇后であった武則天が睡廉政治を始めた時期に武則天を弥勒下生と見なしたと考えているようである。
それは、次に紹介する論文に記載された難解な仮説から推し量ることができる。
仮説1:
麒徳元年末、廃后を図った上官儀(人物名)の殺害・垂簾政治本格化で、甲子革命論高揚(麟徳2年5月麟徳甲子元暦施行)→その後に辛酉革命論が成立し、甲子は革命から革令に格下げ。
仮説2:
則天即位のころに、A.D.(キリスト生誕年)と同干支(辛酉)の龍朔改元の解釈として、景教の影響を受けた則天弥勒下生説とともに辛酉革命論や一蔀1320説が成立。A.D.(キリスト生誕年)を蔀による節目の年から外す鄭玄注は、辛酉革命論の景教や仏教との繋がりを隠蔽し、緯書の佚文(逸文)を装う意図によって、鄭玄に仮託されたと思われる。
女性である武則天が皇帝の地位に就く正当性を中国社会に示すために、まず、釈迦の生誕を紀元前660年とし、その660年後にキリストが生誕し、その660年後の西暦661年に、武則天が睡廉政治を始めたのに呼応して龍が現れるという瑞兆が報告されたので、それを仏教の弥勒下生と捉えたということであろう(この時代には景教の寺院が唐の都長安に建てられ、景教の布教が行われていたので、キリスト生誕年の概念は唐社会に伝わっていたと考えられる)。
さらに、中国では仏教や景教(キリスト教)は一般には普及していないので、中国で生まれた陰陽五行説の緯書に仮託して、女性である武則天が皇帝の地位に就く正当性を中国社会に改めて示そうとした。そこで、後漢時代の大学者である鄭玄が易緯に注釈したように見せかけて、鄭玄注を記したのであろうということを述べていると筆者は解釈した。
武則天の弥勒下生説はどのように作られたか
武則天は女帝という地位に就くために、『大雲経』という仏典を利用し、自らを「弥勒の下生なり」と称して、仏教と「武周革命」を巧みに結び付けたと云われている。
それは、中国史書に記された内容から解る。『旧唐書』本紀第六 載初元年(690年)の条において、「秋七月、(中略)僧十人が偽った内容の大雲経を撰し上表した。神皇を受命したことを盛んに述べている。天下に頒布することを決めた。九月九日、唐を革(あらた)め、国号を周と代えた。改元して天授とした。天下に大赦をおこなった。七日間の慶事の宴を催した」と記されている。
また、『資治通鑑』巻二百四 唐記二十 天授元年(690年)の条において、「東魏国寺の僧法明らが大雲経四巻を撰し、上表した。太后(武則天)は、弥勒仏の下生であり、今、唐に代わって天下の主となると記してある。天下に頒布することを決めた」と記されている。
では、どのようにして「弥勒の下生なり」と称したのであろうか。少し脱線するが、その疑問に対して応えてみる。坪田昭子氏の論文『弥勒としての武則天』に詳しく記されている内容を要約して述べる。
『大雲経』は、すでに失われていると云われている。しかし、敦煌の古寺からの発掘文書から『大雲経疏(だいうんきょうしょ)』なる大雲経の注釈書が発見され、その内容の研究の結果、武周革命の時に大雲経の偽書が創作されたのではなく、五世紀初に曇無讖(どんむせん)によって漢訳された『大雲経』の注釈書『大雲経疏』が作られた。「つまり、『大雲経疏』とは、『大雲経』の釈義書という体裁を装いながら、それまでに存在した「証明因縁識(しょうめいいんねんしん)」や「広武銘(こうぶめい)」などの讖文(しんぶん)や瑞応(ずいおう)を集大成して、武周革命の理論的な正当性を確固たるものにしようとしたものであったと思われる」と記してある。
あとがき
中国の讖緯(しんい)思想から生まれた辛酉革命説が日本に流入した。『日本書紀』の編纂者は、辛酉革命説を取り入れて、斉明天皇が崩御され、中大兄が称制を始めた西暦661年を基準として、一蔀(1320年)ほど遡り年を逆算して神武天皇の即位年を辛酉年としたとする説は、正しい理解と考えてよいと思われる。
中国において、辛酉革命説がいつ頃、どのようにして成立したかについては、歴史の学問分野において、充分に議論され、論が収束して定まってきたとは言い難いように思われる。
武則天が皇帝の地位に就くに当たり、その正当性を世に示すために、当時の叡智を結集して武則天の弥勒下生説が成立し、さらに陰陽五行説の讖緯思想面からも正当性を主張するために辛酉革命説を創作し、後漢の鄭玄注に仮託したとの仮説は大変興味深い。
なぜなら、キリストの誕生年の辛酉年と、武則天が睡廉政治を始めた頃に龍の瑞兆に因んで龍朔と改元した辛酉年とを絡めて辛酉革命説を創作したことは、仏教とキリスト教文化を融合させたということである。そして、中国では、辛酉革命説は武則天の死後、その役割を終えて消滅したにも係わらず、日本においては、辛酉革命説が『日本書紀』に採り入れられ、その後も国家の改元の根拠として用いられ存続した。我が国の人々が長い歴史の中で育んできた日本文化とは何か、ということを考えるために重要な情報になると思う。
「新古代天皇の出自と治世調べ」の第1回として、神武天皇の即位は、なぜ西暦紀元前660年なのか、と題して取り組んだが、辛酉革命説の誕生について過去の研究論が収束していなかったりして、難解な論述となってしまった。図らずも、日本文化成り立ちの特異性や複雑性を垣間見ることができたのかもしれない。
(参考資料)
1.『古事記』 倉野憲司 校注 岩波文庫
2.『日本書紀』(上)全現代語訳 宇治谷 孟 著 講談社学術文庫
3.『日本書紀』(下)全現代語訳 宇治谷 孟 著 講談社学術文庫
4.『日本書紀の謎を解く 述作者は誰か』 森 博達 中公新書
5.インターネット『日本書紀 原文』 http://www.seisaku.bz/shoki_index.html
6.『革命勘文』 三善清行、 『群書類従』第拾七輯 巻第四百六十一 九百六
国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1879818/1/458
7.『中国神秘思想の日本への展開』大正大学選書5 安居香山 大正大学出版部
8.「改元・官僚制・革命(改訂版)」 平山朝治
https://core.ac.uk/download/pdf/56642234.pdf
日文研共同研究会「公家と武家-封建制と官僚制の比較文明史的研究-」2005.6.18
9.「弥勒としての武則天」『大雲経疏』の考察 坪井昭子
信大国語教育 5 44-54, 1996-02-10 信州大学国語教育学会
https://cir.nii.ac.jp/crid/1050001338914033920
掲載先 しんあいち歴史研究会「歴研会誌」第94号 令和7年6月22日発行 P5~P14